■「花見=桜」は平安時代から
花見は、日本人が古来から楽しみにしていた春の行事です。
奈良時代には、花といえば梅や萩などを指していましたが、平安時代の貴族たちは桜を春の花の代表格として愛で、歌を詠み、花見の宴を開いて楽しんでいました。
以来、この時季に咲き誇る花は、桜以外にも桃や菜の花など色々ありますが、日本人にとって「花」といえば桜の花を意味するようになりました。そして「花見」といえば桜の花を見るために野山に出かることをさし、桜以外の花を見に行くときは「梅見」「観梅」「観菊」などとその花の名前をつけて表します。
また、花見は豊作祈願の行事として、農民の間でも行われていました。
桜は、春になって山から降りてきた田の神様が宿る木とされていたため、桜の咲き方でその年の収穫を占ったり、桜の開花期に種もみをまく準備をしたりしていました。
「サクラ」の語源には諸説ありますが、一説によると「サクラ」の「サ」は田の神様のことを表し、「クラ」は神様の座る場所という意味があり、「サクラ」は田の神様が山から里に降りてくるときに、いったん留まる依代(よりしろ)を表すとされています。また、桜の花が稲の花に見立てられ、その年の収穫を占うことに使われたりしていたため、「サクラ」の代表として桜の木が当てられるようになったという説もあります。豊作を願って、桜のもとで田の神様を迎え、料理や酒でもてなし、人も一緒にいただくことが本来の花見の意味だったのです。
■江戸時代の庶民の春の行楽、花見
江戸時代になると、春の行楽として花見が庶民の間にも広がり、酒を酌み交わす花見になっていきました。江戸時代は、園芸が盛んになった時代でもあり、桜の品種改良が進んだことで、身近な場所で花見が楽しめるようになったのです。
三代将軍家光が上野や隅田河畔に桜を植え、八代将軍吉宗は飛鳥山を桜の名所にし、花見の場も増えました。これらは今でも東京の花見の名所になっています。
■江戸で開花の「染井吉野」
桜にはたくさんの種類がありますが、日本の桜のおよそ8割を占めるのが「染井吉野」です。桜の代表格ともいえる「染井吉野」は、江戸時代末期に、染井村(現在の豊島区駒込)の植木屋が、「大島桜」と「江戸彼岸桜」を交配して観賞用に作りだしたもの。当初は桜で名高い奈良県吉野にあやかり「吉野桜」という名でしたが、吉野山の山桜と間違えないように「染井吉野」と改名されました。
花が大きく香りもよい「大島桜」の華やかさを、花が咲いたあとに葉が出てくるという「江戸彼岸桜」の特徴がより引き立て、この新品種は一躍人気となりました。「染井吉野」は親木の利点を上手く受け継いだ逸品だったのです。
さらに、十年ほどで立派な木に成長するため、明治時代に全国の学校、公園、沿道、河川沿いなどに次々と植えられ、主流となっていきました。
ただし、染井吉野は自力で繁殖できず、接ぎ木や挿し木で増やされたもの。そのため、同じ条件下で一斉に開花するので、統計をとったり、お花見をするには適していますが、近い将来寿命が来ると予想され、その対応が課題になっています。
※桜の種類や特徴についてはこちらをご覧ください。
【暮らしの中の歳時記】桜の種類